復活の研究
■感性任せ 限界を悟る■  [PDFファイル:512KB]

「何かボーッとしている。初優勝のようだ」8年ぶりの勝利を羽川豊はこう表した。当時33歳。得意満面の時代から失意の期間を経て、1991年3月の男子ゴルフ、インペリアルトーナメントで再び脚光を浴びる場に戻った。

子供の時からスポーツが得意だった。小・中学時代は野球の投手。左腕から繰り出す変化球は切れが良く、プロ野球選手を夢見ていた。しかし「変化球を投げすぎて」ひじを痛め、断念。高校一年の時、父がゴルフ場を開業したのをきっかけにゴルフを始めた。

学校が終わると毎日5時間、球を打ち続けた。友達と遊ぶより球を打つのが楽しく、修学旅行も休んだ。「ゴルフ雑誌の写真や上手な人のスイングをまねて覚えた」専大に進んですぐレギュラーとなり、4年連続朝日杯学生で優勝。4年生の時には学生日本一にもなった。

プロ2年目の81年には国内最高峰の日本オープンでプロ初優勝。シーズン終盤の日本シリーズも制し、賞金ランク8位となった。「怖いもの知らずで、何をやってもうまくいった」翌年4月にはマスターズに招待され15位。それまでの左利き選手の最高順位をあげ「現代最高のレフティー」と称賛された。

「もっと上のレベルに」米国のゴルフを見て、そう思うのは当然の成り行き。だが飛距離を出そうとムキになってクラブを振るうち、ショットのブレが大きくなる。米国の高速グリーンに対応する打ち方を求めるうち、手の動かし方がわからなくなり、50センチのパットが打てなくなる。83年東北クラシックで3勝目をあげた時には、すでにほころび始めていた。

3年間保持したシード権を84年に喪失、以来シードなしは4年続く。華やかな時代の後だけに、惨めさが余計にこたえた。「スイングのメカニズムや理論を勉強せず、数多く球を打ってつくりあげたゴルフだった。いってみれば感性のゴルフ。一度訳がわからなくなるとどう立て直したらよいかわからなかった」

88年1月、尾崎将司のもとを訪ね、一緒に体を絞った。試合会場などで聞くプロの話の中で、尾崎将が一番理論的だと感じていた。「4年間悪かったのだから、4年かけて直せばいい。焦ってはいけない」尾崎将の最初の言葉だった。

ジャンボ軍団には尾崎建夫、飯合肇らシード選手が10人ほどいた。彼らに比べ羽川が一番劣っていたのは体力。体を鍛える前に、球を飛ばすことを考えたのが失敗だったとわかった。

体づくりからじっくり取り組み、88年末、5年ぶりにシード権を回復。91年3月のインペリアルで8年ぶぶりに優勝すると、次週のダイドー静岡も制し、鮮やかによみがえった。ショットが安定、パットがよく決まった。「どん底を味わうのはもう嫌だが、つらい経験をしないと勉強はできないものですね」優勝会見で実感がもれた。

現在、羽川は試合から離れ、ゴルフ解説者としてのイメージが強い。まだ44歳。今季、年上の中嶋常幸が7年ぶり、同期の湯原信光が10年ぶりに勝ったことが、刺激になっている。「50歳になったら米シニアに挑戦する。これからの5年間をどう過ごすかが僕の課題」次はシニアツアーを舞台に2度目の復活劇を演じるつもりだ。
(日本経済新聞:2002/10/29)